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Thom(Thomas Edward Yorke:リード・ヴォーカル/ギター/キーボード)、Colin(Colin
Charles Greenwood:ベース)、Ed(Edward John O'Brien:ギター/バッキング・ヴォーカル)、Phil(Philip James
Selway:ドラム)、Jonny(Jonathan Richard Guy Greenwood:ギター/キーボードetc.....)の5人は、オックスフォード郊外にある全寮制男子校アビンドン・スクールで出会った。
ThomとColinは同級生。"ちょっとした奇抜な服装趣味"(この時代はニューロマンティクス全盛の時代)だったという2人はいつも同じパーティーで顔を合わせていたらしく、バンドを結成するに至る。それがパンクバンドTNT。
Thomは誰もやりたがらなかったからという理由でヴォーカルを。ヴォーカルスタンドを持っていなかった彼はほうきをスタンドに見立てて、大笑いされた。自分のヴォーカリストとしてのデビューはそんな感じさ..とThom。
そして、このバンドに加わったのがEdである。
ThomはEdを誘った理由として「かっこよくて、モリッシーににていたから」と語っている。
Edもバンドに入った頃はコードすらろくに押さえられなかったらしい。
この3人の活動はもっぱら学校の音楽部で行われ、この3人を中心にバンドが出来上がって行った。
3人以外のメンバーはメンバーチェンジを繰り返し、ドラムはBOSSのドラムマシンを使っていた。ある日パーティーで曲を披露する事となるが、1曲目にしてドラムマシンが壊れるハプニング。当然ブーイングの嵐である。これをきっかけに本物のドラマーを探すことになる。そして"顔だけは知っている"という上級生のPhilに声をかけた。
......1985年、「ON A FRIDAY」(毎週金曜に練習をしていたから)というRadioheadの前身となるバンドが結成された。
Colinの弟であるJonnyはON A FRIDAYのリハーサルにちょくちょく顔を出していた。最初の1年は誰とも言葉を交わさなかったらしいが、バンドには入りたがっていた。
しかしバンドは3人もギターはいらないというとのことで、Jonnyは別の方法でバンドに在籍する方法を探す。Jonnyはキ−ボードを持ち込み、音をあまり出さないように正しいコードを引き続け、Jonnyが弾かないことで何かが足りない...と他のメンバーに思わせる作戦にでた。そしてそれが大成功。ついになんとか正式メンバーとしてはまだ認めてもらえなかったものの、ハーモニカでのゲスト奏者としてバンドへの参加が許された。
そして バンドは地元でパーティで演奏するなど、活動を続けた。
86年、Philが高校を卒業し、大学へ進学。
翌年87年、Thom、Ed、Colinが高校を卒業。Ed、Colinは大学へ。Thomはブラブラすることにした。Jonnyはまだまだアビンドンで学生生活が続く。
同年、限定で6曲入りデモテープを配布。
この年の夏、ジェリコ・タヴァーンではじめてクラブギグをおこなった。
この時期、オックスフォードのオールド・ファイヤー・ステーションではON A FRIDAYの前座にThomの弟のAndyとJonnyの在籍していたバンド、イリテレート・ハンズがステージにあがっている。
それから1年の間は 学業とバンド..。
しかし バンドはほぼ消滅状態にはいる。88年秋、Thomはオックスフォードを離れエクセターで暮らす事になり、ステージ活動からは3年も遠ざかることになった。この間、Thomはオックスフォードに戻る時間を作ってはON
A FRIDAYの仲間と会うようにしたが、誰よりもJonnyと会うのを楽しみにしていたという。
そして Jonnyはパートタイムのハーモニカ奏者から、短期間のうちにThomにとってのメインのソングライティングパートナーへ。Thomが大学を卒業したころには、Jonnyは3人目のギタリスト兼キーボード奏者として正式なメンバーになっていた。
90年暮れのある日、コートヤードのスタジオに1本のテープが持ち込まれた。ThomとColinのバンドだ...という4曲入りのデモテープだった。(伝えられる話によれば)--これはThomとColinの同僚が持ち込んだとされている。4曲のうち、1曲だけ(おそらくRattlesnakeだと思われる)がジョージタウン・スタジオ(のちのコートヤードスタジオ)の経営者クリス・ハフォードの印象に残ったと言う。
そして91年へ..バンドは再びオックスフォードの音楽シーンに返り咲くこととなる。
91年、On A Fridayは初めての3曲入りのデモテープを制作。夏に再びそのテープはコートヤードスタジオ(91年に名前を変更)に持ち込まれた。そしてテープを気に入ったクリス・ハフォードの元へ、ジェリコ・タヴァーンで行われるギグへの招待が送られた........
.....というのがオフィシャルストーリーとなっているが、このテープを持ち込んでいるという友人の実在も立証されていない、バンドには直接招待を受けてはいないんではないか?などと、このストーリーにはいろいろ謎も残っているようだ。
いずれにせよ、91年8月8日のジェリコ・タヴァーンでのギグをクリス・ハフォードが見たのは事実で、ギグ終了後に楽屋に行き「君たちと何が何でも仕事がしたい」と申し出たという。その後、バンドはスタジオを助けるためになんでもし、その代わりにメンバー各自が100ポンドづつ出して好きなだけスタジオが使えることになった。
またColinは当時働いていたレコードショップを訪れたEMIの販売担当者キース・ウォーゼンクロフトに、"On
A Friday"のテープを渡し売り込んだ。キースは新人発掘という新たなセクションへ移ることになっており、その最後の挨拶をしにレコードショップを訪れたようだが、このテープをきっかけにColin、そしてOn
A Fridayとの関係が続く。
10月にバンドは5曲入りデモテープをコートヤード・スタジオで制作。ちなみにこのテープは1本3ポンドで売られた。
このテープのレコーディングにより、スタジオの経営者であるクリス・ハフォードとブライス・エッジは彼等のマネージャーになることとなる。
パーロフォンの新任(新人発掘)担当者となったキースはEMIのオフィスにて、On A Fridayを職場の上司に推奨。
クリスとブライスも知り合いをつてにレーベルとの接触をはかり、イギリスの他のレコード会社にもデモテープが送られ、業界中が一気にそのテープの話題でもちきりになり、11月に行ったギグでは20以上のレコード会社の人間達の姿があったという。
12月、EMI傘下のパーロフォン・レーベルと正式に契約を結ぶが、EMIは契約当時からバンド名に不満があり、ぱっとしないバンド名はマイナスだということに彼らが気づくこと期待していたという。
その後、 バンド名はTalking Headsの86年作品の"True Story"の裏ジャケに見つかった。
"Radio Head"というタイトルの曲。そしてほとんど話し合いらしい事もなく今後は「Radiohead」と名乗ろうと、意見がまとまった。しかし、なぜRadioheadを選んだかという理由、名前の解釈については幾通りもあるようだ。
パーロフォンからの第1弾4曲入りEP"Drill EP"を5月にリリース。
その後、Drillに続く次作の為にボストン・インディー・シーンの代表的プロデューサー、ポール・コールドリーとショーン・スレイドがEMIによって呼び寄せられるが、順調には進まなかった。次作にふさわしい曲のリハーサルをおこなっていたそんなある日、誰もか聴いた事のない曲が演奏された。
それが"Creep"だった。
この曲はテープをまわしていることをメンバーに告げずに1テイクで録音された。9月に"Creep"はリリースされたが、78位に終る。Fで始まる言葉と悲惨なリフレイン、暗すぎる...などを理由にBBC
Radio1では完全にプレイリストから"Creep"をはずした。92年、「みじめ。臆病まロックバンド」と評する雑誌もあれば、「注目すべきバンド」という雑誌も。この年、Radioheadは100回以上のライヴ(ほとんどは他のバンドのサポート)をこなし、継続的に新しいファンを獲得し徐々に注目を集めていった。
92年末のNME誌では「TOP 10 NEW BAND 1993」に選ばれ、"Creep"は「NME最優秀トップ・シングル50・オブ・ジ・イヤー」第4位に輝いた。
2月、3枚目のEP"anyone can play guitar"、2月22日デビュー・アルバム"Pablo
Honey"、そして5月には4枚目のシングル“pop is dead”をリリース。
"Creep"はアメリカでブレイクしていた。
3月に突然イスラエルでの3回のショウを行う事になり、この時はじめてVIPな待遇をうけたという。Jonnyはこのイスラエルで現在の妻と出会った。4〜6月はヨーロッパツアー、
終えるとその足でアメリカに直行。初のアメリカでのライヴを行う。ツアーは各地でソールドアウトし、追加公演まで行われた。
9月、アメリカで成功したため、"Creep"がはヨーロッパ・イギリスで再リリース、限定12インチレコードもリリースされた。最高78位だった"creep"が今度はUKチャートの7位に急上昇。イギリス中が驚いた。
9月中旬から1ヶ月Bellyのツアーに同行。アメリカのあと、カナダ、そしてヨーロッパ...1年間で彼らが回った国は世界14カ国、130回近いライヴをこなし高い評価を得た。
"Creep"がNME、 Rolling Stone、Melody Makerで年間最優秀シングルに選ばれる 。
93年は、Radioheadにとってまさにブレイクの年となった。
1月からリハーサルにはいり、 バンドはセカンド・アルバムのレコーディングを開始した。プロデュースはマガジン、ライド、ストーン・ローゼスなどを手がけたジョン・レッキー。
すべりだしはよかったものの、"Creep"から離れる事、"Pablo Honey"ですでにやったことを繰り返す事だけは避けようとし、方向を見失った彼らは泥沼にはまっていった。その上、アルバムからの先行シングルを先にレコーディングするというEMIからの提案が彼らの状況を悪化させ、日に日にバンドにまとまりがなくなっていき、メンバー間のエゴがぶつかり合うように。そこでジョン・レッキーが提案したのは、Thomにアコースティック・ギター1本でひとりでレコーディングすること。そして最初にできたのが"Fake
Plastic Trees"だった。せっかく突軌道にのったものの、バンドは5月からワールド・ツアーを開始しなくてはならず、レコーディングは進まずEMIの計画していた10月リリースはボツとなった。
5月からツアー開始、25.26.27と3日間のイギリスツアーの初日、Thomは転倒、2日目にはギブスをつけステージに登場。そして5月27日のロンドン/アストリア公演はMTVにより収録され、後レディオヘッド初のビデオ「Live
At The Astoria」として発売されている。
6月初来日。初来日公演のチケットは1日で完売。
イギリスに戻った彼らはレコーディングを再開。レコーディングの合間をぬって、フェスティバルに数本出演。JonnyはReading Festivalへの参加を夢見てきただけに、それまで生きてきた中で一番身のすくむ体験だったと語っている。バンドはReading
Festivalのあと、結婚したPhilの為にレコーディングを中断し短いオフをとった。 そしてPhilは新婚旅行へ。
9月26日、ニュー・シングル“My Iron Lung”リリース。UKチャート24位。さらにアルバム制作は続いた。 9月から全英ツアー、その後タイとメキシコを回った。
メキシコではレコーディング中ずっと抑えられてきたバンド内の不満が一気に爆発し、出会った頃から積み上げてきてしまったおもいが、その日噴き出て、罵り合い、言い合い、泣きわめいた。とThom。
しかし、ツアーで得た経験を重ねる事で手応えを感じ始め、ツアーで曲に磨きをかけ、アビー・ロード・スタジオ に場所を移すと、2週間程でアルバムを完成させたという。
この1年は彼らにとって波乱に満ちた1年であったといえる。
彼らにとってのこの年はアメリカでの"Fake Plastic Trees"、"High
and Dry"のビデオ撮影から始まった。その後、イギリスでThomとJonny2人だけのアコースティック・パフォーマンスが続いた。
2月シングル"High and Dry"が2ヴァージョンでリリース。3月セカンド・アルバム"the bends"(タイトルはこのアルバムのリハが終わった段階では"Belisha
Beacon"だったらしい)が遂にリリースされる。
"the bends"は世界中のファン、メディアから熱狂的に迎えられ高く評価された。その後に行われたツアーの反応からもそれは明らかだった。
しかし5月の全米ツアーが始まる頃、飛行機の乗り降りの毎日でThomの体調が悪化。
耳に水がたまり、不安と動揺でボストンのショウの最中にはモッシュ繰り返す客の一人に向かってギターで殴りかかり、モッシュをやめろ!とどなった事もあった。その後もThomの心的ストレスは残りのツアーに耐えられないほどに悪化。ボストンの3日後には完璧にまいってしまいイギリス行きの飛行機に乗せてくれとマネージャーに泣きついたというが、メンバーと話す事で持ちこたえられたと言う。
5月15日には"Fake Plastic Trees"が2ヴァージョンでリリース。
そして 6月には2度目の来日公演。3週間の全米公演、さらにR.E.M.の欧州ツアー。
8月には"Just"がシングルカットされ、今回も2ヴァージョンでリリース。
そしてこのシングルよりも"Just"のビデオが話題をよぶ。MTVで大々的に流され、この反応の良さがアメリカ向けのビデオ"High
and Dry"の制作を促すことに。
8月末からはヨーロッパ各地のフェス出演。
9月、チャリティ団体「War Child」によって戦地ボスニアの子供たちのための援助資金を募る目的で企画されたコンピレーション・アルバム"Help"に参加。このアルバムには当時ライヴでもよく演奏し受けも良かったという未発表の新曲"Lucky"が収録された。レコーディングにかかった時間はわずか5時間、そしてこのアルバムはレコーディングの5日後され、Radioheadは再びアメリカへ向かい、R.E.M.のサポートをつとめる。R.E.M.のサポートと並行してソウルアサイラムとのサポートとしてのツアーも始まった。しかし、今度はツアーによってひきおこされる疾病にJonnyが侵された。
耳鳴りと出血。ギグの最中に気を失う寸前となり朝の3時に病院にかつぎこまれ、状況はかなり悪いと診断された。
そしてそれ以降Jonnyは数ヶ月、ヘッドフォンのような耳の保護シールドをライヴ中に着用するよう薦められた。それに加えデンバーではホテルで楽器がすべて盗まれるという事件が起きた。
結局何一つ戻らず、いくつかのショウはキャンセルされた。新しい楽器を購入し、その後もツアーは続き、イギリス、ヨーロッパをも回る。この過酷なツアーの代償は今度はThomの喉に。
ミュンヘンでのサウンドチェック中に声が出なくなったが、キャンセルするわけにはいかず予定通り行ったが、3曲目でダウン。病気と不安で意識を失いそのままステージに倒れ込んでしまった。こんなことがあってもツアーは続いた。ヨーロッパの後には再び北米へ戻り、カナダ中心のライヴを行う。....過酷な年であった。
1月、丸々オフをとる。その後ニュー・アルバムのリハーサルに入り、Nigel Godrichと共にレコーディングへと制作が進行する。
3月にはレコーディングと平行して再びアメリカツアーが始まった。
このツアーのセットリストにはリハーサルで練習を重ねた未発表曲や、カヴァーなども披露された。
そしてこのツアー中には、いくつかのテレビ番組にも出演する。
4月、アルバム'the bends'がアメリカでゴールド・ディスクに認定される。
8月、アリーナ会場、スタジアムを中心とするアラニス・モリセットとのツアー。
その後、レコーディングへ。
10月、バズ・ラーマン監督「ロミオ+ジュリエット〜オリジナル・サウンド・トラック〜」リリース(日本盤は97年3月リリース)。Radioheadはこの映画に新曲"talk
show host""Exit Music"の2曲を提供するが、"talk show host"のみがサウンド・トラックに収録。"Exit
Music"は映画のエンドロールが流れるところで流れた。「みんな席を立っちゃって、誰も聴いてない」とも語っていたが、"Exit
Music"は次の自分たちのアルバムに入れたいという意志もあったようだ。
3月まで"OK COMPUTER"の制作は続行し、アルバムを完成させたバンドは1ヶ月のんびり過ごす。
ThomとJonnyはR.E.M.のマイケルスタイプの監修する「ヴェルヴェット・ゴールドマイン」のサントラを手伝う。2人は架空のバンドTHE VENUS
IN FURSというバンドのメンバーとして3曲カヴァーした。
4月13〜19日、プロモーションの為に来日。
5月26日アルバムからのファーストシングル“"Paranoid Android"をリリース。
6月ニューヨークで行われたチベタン・フリーダムコンサートに参加。
6月9日に行われたニューヨーク/アービング・プラザの観客には音楽界の大御所と呼ばれる人達を始めスーパーモデルなどが大勢詰めかけた。
その後バンドは西海岸へ飛ぶ。このカリフォルニア滞在中にサンフランシスコで2日間のオフがとれたThomはDJ Shadowと"Rabbit
in your headlights"でコラボすることに。
6月16日にUK/ヨーロッパでアルバム"OK COMPUTER"リリース。全英NO.1となる。
それ以降の出演はどれも5ケタの観客の前で行われるものばかり。6月26日ヨーロッパ最大級フェスティバルロスキルデ・フェスティバル出演。28日にはイギリスの最大級フェスティバルグラストンベリーのトリをつとめる。..そしてThomのフェスティバル恐怖症が発症(?)その後もフェスティバル出演は続き、7月2日全米でアルバムリリース。全米アルバム・チャート21位にランクイン。
7月下旬からは全米ツアー。このあたりからGrant Gee監督同行でドキュメンタリー・フィルム「Meeting People is Easy」の撮影がスタート。8月25日セカンドシングル"Karma
Police"がまたしても2ヴァージョンでリリース。9月には11日間のUKツアー、11月には全英で初のアリーナ・ツアー5公演。しかし、この期間中にThomは再び「最悪の状態」に陥っていた。こういった状態は後にリリースされるビデオ「Meeting
People is Easy」からもわかる。
11月2枚組コンピレーション・アルバム「チベタン・フリーダム・コンサート」リリース。
その後なんとか12月まで持ちこたえた彼らはニューヨークへ飛び、「Live At 10 Spot」の生放送。
そしてイギリスに帰った彼らのもとには各賞が山積みになっていたという。
"Band of the Year""Album of the year"etc...
またこの年、RadioheadはIvor Novello Awardsにおいて'Karma Police'でBEST CONTEMPORARY SONG、'Paranoid
Android'でBEST SONG MUSICALLY AND LYRICALLYを受賞している。
1月、アルバムからのサードシングル"No Suprises"リリース。その直後日本、ニュージーランド、オーストラリアを回るOK
Computerツアー第2弾開始。
15日の長野への移動は大雪のため困難を極めた。2000人収容のホールに400人しかたどり着けなかったが、おおいに盛り上がった。Edはみんなサバイバーだった。映画「大災難P.T.A」の世界をバンドに置き換えたみたいだったと語っている。
その後のオーストラリアツアーはすべて予定通りでハッピーだったという。
日焼けしたり、ゴーカート乗ったり...と楽しい日々をすごしたそうだが、ここでのことは「Meeting People is Easy」にはほとんど収録されていない。Gee監督が映画の大半についやしたのは、悲惨な様子ばかりらしい...。
3月には再び全米ツアー開始、4月17日のニューヨーク/ラジオシティ公演で長いワールド・ツアーは幕を閉じた。その間、2月末のグラミー賞で「年間最優秀アルバム」部門にノミネート、「ベスト・オルタナティヴ・ミュージック・パフォーマンス」部門を受賞。
4月に"Airbag /How am I driving"をアメリカ限定でリリース。
5月27日初のビデオ・クリップ集「7 television commercials」リリース。
6月13・14日にワシントンDCで開かれた第3回チベタン・フリーダム・コンサートへの出演。
初日は悪天候と落雷のために感電事故がおき、初日に出演が予定されていたRadioheadは翌日に振り返られた。しかし、我慢強くまっていた約800人のファンの為に、バンドはシークレットギグを急遽行った。
8月下旬、Thomが"Rabbit in your headlights"で参加したU.N.K.L.E.のアルバムリリース。
約半年間、公共の場から姿を消していたRadioheadは12月10日世界人権宣言50周年を記念してパリで開かれたアムネスティ・インターナショナル人権コンサートに参加。これは98年ヨーロッパ地域での唯一のパフォーマンスとなった。
Colinは98年のオフの間に結婚。
ThomはDrugstoreのアルバム"White Magic For Lovers"に参加。
バンドはNigelと共に再び新作の制作を開始。
スタジオの問題から彼らは国境を越えてレコーディングという日々が始まった。
6月第4回チベタン・フリーダム・コンサートに参加。ThomとJonnyの2人での参加となり、新曲"nothing to fear"(のちに"Egyptian
song "さらに"Pyramid song"として知られることになる)をプレイ。
7月頃からオフィシャルサイト上でEdによるレコーディング日記の連載開始。状況を告げてくれるのはありがたいが、はじめは嬉しい情報はまれだった..。連載から3ヶ月ぐらいしてからやっと明るいニュースが。このあたりからネットを通じてのコミュニケーションの場が持たれた。年末には予告なしのウェブキャストが行われるほか、オリジナルグッズの購入も簡単にできるようになった。12月、Edによると6曲が完成していた。ここまでたどり着くのに11ヶ月かかったようだ。(ちなみに当時のオフィシャルサイトにはそれぞれのメンバーが更新するそれぞれのページがもうけられていた。)
クリスマス休暇のあと再びバンドが集まり、Nigelは2チームにわかれて作業する事を提案した。
このことは当時のEdの日記にも記載されている。ここから生まれたものは実際収録されていないようだが、春には完成、もしくは完成間近な曲が24曲 もあったという。
1枚にするか2枚組にするか...そして結局"KID A"とタイトルのつけられたアルバムにはまず10曲が収録されることになった。残りの曲はEMIとの協議の結果半年以内に別のアルバムとしてリリースすることにしたと発表した。
この最中である2月、3月と連続して再びwebcastが行われた 。DJを楽しむ彼らの姿がネット上にリアルタイムでオンエアされる。
6月、 "KID A"のミキシングとマスタリングが完成、そして中旬からRadioheadは久々にヨーロッパツアーを開始。
9月、 テントツアーなる大型テントを持参してのヨーロッパツアーが再びイギリスから始まった。
同月、"the bends""OK COMPUTER"からのシングルFake Plastic Trees
(Part 1+2)/ High & Dry (Part 1+2) /Just (Part 1+2) Street Spirit (Part
1+2)/ Karma Police (Part 1+2)/No Surprises (Part 1+2) / Paranoid Android (Part
1+2)が再発される。
夏後半あたりからKID Aのリリースにむけてのプロモーション活動が活発になっていく。バンドは"KID A"からシングルカットはしない、ビデオは作らない(かわりにBlipsといわれる約15〜40秒のアニメーションを作成、ネットやテレビで放送された。その数40近い。)プレスとの取材も最小限にとどめるという決断を下すものの、TV番組にも多数出演し、インタヴューを受け続けた。
ネット上では特別サイトがオープンする他、 アメリカでは連日リリース前に視聴会なるパーティが行われ、日本でも「アングリーベアー隊」なるものが発足しファンが宣伝活動を行い、w.a.s.t.e.でも50人限定で秘密のパーティを行った。だがヨーロッパでは発売目前にすべての曲がトラックマークがでてから40秒遅れで始まるといった問題が見つかり、EMIは配布中断し回収するといった事件も起きた....。
10月、"KID A"リリース。アメリカのHMVでは発売日の日付が変わる真夜中からspecial midnight saleを開始するほど意気込む。そしてアルバムは全英米両チャート初登場1位。
その後Radioheadはアメリカで数回ライヴを行い、スタジオライブも披露した。
この年、ThomはBjorkのアルバム"SelmaSongs"、 PJ Harveyのアルバム"This Mess We're
In "でそれぞれとデュエット。
またThomが大学時代に在籍していたバンド、Headless Chickensの"I Don't Want To Go To Woodstock"が収録された"Year
Zero / The Exeter Punk Scene 1977 - 2000"というコンピレーションアルバムがリリースされた。
"KID A"から"Amnesiac”の間、2月にThomとRachelの間に息子Noahが誕生。Thomは父親になったことを「喜び」と一言で表現した。
その月"KID A"はグラミー賞でベスト・オルタナティブ・ロック・パフォーマンスを受賞。
L.Aのステイプルス・センターでおこなわれた授賞式にEd、Colin、Philが出席した。
3月、オフィシャルMBにてThom自らアルバム "Amnesiac”の収録曲全曲発表 。
4月にはこの年初めてのライヴ(Canal+フランスのTV番組用スタジオライヴ)を行った。
また、ColinはSparklehorseのロンドン公演に3日連続ゲストDJ として出演。Jonnyも1日のみ出演した。
この頃より、"KID A"の時のようなネット上でのプロモーション活動が活発化する。
今回はしっかりビデオ制作も行い、アルバム収録曲も耳にすることができるようになってきた。
Jonnyはこの当時にみんなに聴いてもらえるようになって嬉しい。Pyramid Songは最高傑作だと語っていた。
そのPyramid Songは5月にリリースされ、一日で17000枚の売り上げ。
6月、 "Amnesiac”リリース。当初の予定であった"KID A"から半年以内にリリースというのは修正され、8ヶ月たってのリリースとなった。
夏から秋へとかけて、Radioheadは世界12カ国で計34回のコンサートを行い、最後は日本で締めた。しかし8月11日と12日の Bull Run
Parkでのコンサートは両日共、洪水の為中止された。
全米では公園等一般的なライブ会場ではない場所で行われ、チケットはRadioheadのウェブサイト経由でインターネットのみの販売を行うほか、チケット+アフターパーティといったセットがオークションに出品され、収益金をアムネスティや、Musicians'
Assistance Programに寄付をするといった活動も行った。
この年もっとも記憶に残るのは7月7日、地元オックスフォードのサウスパークで行われたライブであろう。最後に演奏された"Creep"は実に3年ぶりのプレイとなった。ライブ後にThomは感動で涙を流していたという。
この年のツアーでは 新曲やカヴァーを披露。その後、再び半年のオフにはいる。
ThomはRachel、Noahと家で過ごし、Philはサマリタンズでの活動、2人目の息子が誕生。
Edはオックスフォードを離れ、JonnyはBodysongのサントラの作業、EdとPhilはNeil Finnのアルバム、ライヴに参加、Colinは趣味でお菓子作りをはじめた(ちなみにプラム・パイがおいしくできたらしい)。
7月にはKnives Outが2ヴァージョンでリリース。
11月にはライブ音源を集めたツアー記念のミニ・アルバム"I Might Be Wrong"をリリース。
この年、Radioheadはアニメ「サウス・パーク」にも登場。もちろんアニメキャラクターで。そして声優にも挑戦した 。
そしてThomは 'Space Ghost Coast to Coast'というアニメと人物の融合(ゲストのみがそのまま)という番組にもゲスト出演した。
半年の休息期間が終わる頃、Edが新たな戦略を提案した。
Thomが新曲のデモをバンドにわたす、そのアイディアを3ヶ月のリハーサルで発展させ、2000年の"KID A"後に行った時と似たヨーロッパツアーの夏ツアーで試す。そしてツアーで学んだ経験をスタジオに持ち込み、アルバムをつくるというものだった。
そしてThomは"The Gloaming""Episcoval""Hold Your Prize"とタイトルのつけられた3枚のCDをメンバーに送った。ThomがCDにタイトルをつけたのは5年ぶりだったという。
それから数ヶ月彼らは全員で作業を進め、候補曲をまとめると再びNigelに渡した。
7月、ポルトガルとスペイン、2カ国の5都市のみのツアーが始まる。
当初ライヴ前半は新曲ばかりが演奏され、インターバルがとられその後今までの曲をプレイするといったライヴが予定されていたが、これが実行されたのは初日のみだった。
このツアーではThomのそばには新曲の歌詞が譜面台が置かれていたり、最終日には客からリクエストを募るという珍しいライブがおこなわれた。またLiftが復活し、次のアルバムに入るのでは?と騒がれた。
9月、2週間という期間で Nigelのアイディアというより命令でL.Aでのレコーディングにはいる。
その後イギリスに戻りレコーディングを続行。10月にThomがカリフォルニアで行われる障害児の為のBridge school charity concertにソロ出演するため一瞬中断したものの、作業は続いた。
2月、L.AのWiltern Theatreで行われたRecording Artists Coalition benefit concertのBeckのライヴにThom飛び入り。
BeckとVelvet Undergroundのカバー"I'm Set Free"をデュエット。
グラミー賞、Stanley Donwood & Tchocky (Thom)が Best Recording Package(Amnesiac
- Special Limited Edition)を受賞。
NME Awardsにて"Best Music Video"賞(Pyramid Song)受賞。
Q Awardsで "Best act in the world"を受賞。
JonnyがBryan Ferryの8年ぶりのソロアルバム"Frantic"に収録されている"Hiroshima"に参加。
ThomはBristol Academyで行われたDJ Shadowのステージに上がり、"Rabbit In Your Headlights"
を披露。
Philは学生時代から活動しているサマリタンズの活動資金援助のためにロンドンマラソンに参加し4時間半で完走。
これにあわせて特別なページが立ち上げられた。そのページでは直接寄付ができ、動画による走るPhilの距離が募金額を表した。当初£4500が目標金額であったが最終的には£21252に。ネット上のPhilもゴールにたどり着いた。
Trade Justiceの集会にThomとEd参加。
Ed、Asian Dub Foundationのアルバム'Enemy of the Enemy'に参加。(2003年リリース)
年末、再びwebcast決行。Jonnyの妻が出産間近とのことでJonny欠席。
Philが三児、Jonnyが二児の父に。
春、6作目となるニューアルバムのタイトルが"Hail To The Thief"、6月リリースと発表。
3月、リリースよりかなり前にアルバムがネット上に流れるといったリーク事件が起きる。
ネットに出回った音源は完成トラックではなく2月にスタジオから盗まれたというラフ・ミックスだった。
盗まれたことより、未完成の曲が出回った事にバンドは心傷めた。
Thomは後に、この件に関して「EMIは僕に声明文を出させたがってた。ネットでの音楽流通は遺憾だ、みたいなことをさ。でも、いいことはでてくるはずだよ。メジャー系のレコード会社は当然うけるべき仕打ちだったし、もう前々から受けていい仕打ちだったんだ。これまでの悪行が宿命となって巡ってきたんだし、勿論それは僕の方にも巡ってきてるってことだよ。まぁどうなるんだか...でもショックを受けてるわけじゃないんだ。全然。残念ではあるけどね。と僕は思うな。ただ、別の方法を考えなきゃってことじゃないかな。要するに僕達、レコーディングが終わったら即座にネットにのせればいいんだ。そうすりゃ問題解決だ。ハハハ...」と語っている。
5月にはw.a.s.t.e.のみでチケットを販売した小さなクラブを回るクラブツアー(ファンクラブツアーともいわれた) がダブリンを皮切りに行われ、最後はロンドンのShephers
Bush Empireで幕を閉じ、この模様はテレビで放送された。
6月、"Hail To The Thief"リリース。イギリスを含めた数カ国で初登場1位。全米チャートは3位止まりであったが、発売第一週の売り上げは30万枚をあげ、バンドの歴史上最も輝かしいアメリカでのセールスとなった。
同月ニューヨークのフェスを初め、スウェーデン、ドイツ、ベルギー、イギリスとフェスティバルへの参加が続いた。Thomのフェスティバル恐怖症はどこかへいってしまったようだ。本人曰く、「フェスもいいじゃん..」と心変わりが会った模様。
7日のField Day Festivalは開催直前に開催地が変わるといった問題が勃発し、それに加えて雨まで降っていた。当日目玉のひとりであったBeckの事故による突然のキャンセルなどもあり、当日駆けつけた客は予想もしていなかった事の連続であったが、Radioheadはライヴ中謝罪、素晴らしいライヴを披露し、そんな彼らを救った。
7月もフェスティバルへの参加は続き、フランス(パリのReservoireではThomとJonnyはシークレットGIGも行っている)、スイスのフェスのあとはイタリアツアーを行い、
8月からには日本のフェスにも参加、8月29日はR.E.M.、30日はRadioheadの公演と続いたThunderbird Stadium(バンクーバー)では、おそろく誰もが期待、もしくは予想できたであろう、Thom、Michael
Stipeのお互いのステージに飛び入り参加。
9月のHollywood Bowl 2DAYSの翌日に同会場で行われたJames Brownのコンサートにメンバーと共に足を運んだThomはこの日のステージでJames
Brownを紹介するチョイ役として出演することになりステージに上がる。
アメリカのツアー中にはこういったサプライズが続いたようだ。
8月から10月にかけては第一弾、第2弾とわけられたUSツアー行ったわけだが、USツアー最終日のニューヨーク公演を終えた後も気が抜けない。その後すぐニューヨークのBrooklyn
Academy of Musicで行われたMerce Cunninghamのダンス公演"Split Sides"があった。これにはPhil以外のメンバーが参加。バンドはこの公演の為は曲を提供し演奏。この公演は2部制で、音楽は1部をRadiohead、2部をSigur
rosがそれぞれ20分づつ担当した。
11月にはヨーロッパを回り、後半からは再びUKツアーが始まった。5月から始まったツアーから12月はじめのダブリン公演まで60本以上のライヴをこなした。
10月にはイギリスの音楽誌『Q マガジン』が選ぶQアワーズの最優秀アーティスト賞を受賞。しかし、以前同誌に"miserable"と言われたことを根に持ち、授賞式への出席を拒否し無言のビデオ・メッセージを送った。このビデオの最後には「Radioheadは、Qマガジンとは話をしない」というテロップが流れた。しかしJonnyはビデオなんて送っていないと否定。
"there there" Go To Sleep""2+2=5"とHeil To The Thiefからのシングルが続々リリース。
Jonnyの手がけたサウンド・トラック"Bodysong"リリース。
"Where I end and you begin" のデモヴァージョンがOxfamのコンピレーションCDに収録 。
Ed、Colinにも第一子が誕生し、メンバーすべてが父親になった。
1月、昨年夏にThomが春にアメリカのフェスに出る....といった予告通りLAで行われるCoachella Festivalの参加決定。
2月、NME AwardsでRadioheadは"hail to the thief"でベスト・アルバム賞"There
There"でベスト・ビデオ賞受賞。
NME Awardsのトロフィーは中指をたてている手の形をしているが、授賞式に参加したThomとJonnyは2つゲットしたそのトロフィーの両中指を壁に当てるなどして折った。
グラミー賞ではNigel GodrichとDarrell Thorpが"Hail To The Thief"でBest Engineered
Album ,Non-Classicalを受賞。
3月、FUSELEEDS 04ではJonny作曲の12分20秒にも及んだ"Smear"がLondon Sinfoniettaにより演奏される。当初Jonnyの参加は実現しなかったものの、コンサート前のトークショウにJonny参加。
昨年暮から続いていた 数ヶ月のオフも終わり、再びRadioheadは4月よりツアーを再開。
日本では来日を記念して"Com Lag : 2+2=5 "を限定リリース。
約半月で日本の2都市、オーストラリアの2都市計8本のツアーが予定されていたが、最終地であるメルボルンの初日からThomの声がでず、2日目はキャンセルとなった。
数日後の5月1日に Coachella Festivalで復活。Pixesの後に同ステージに立ち、その日のトリを見事に飾った。
同月、オックスフォードで行われた俳優Tom Hollanderのあらゆる分野からの人材を集めて子供達の為になにかしようといった企画にEd、Colin、Philの3人が俳優Bill
Nighyのバックバンドとしてステージに上がり、"Love is All Around"をプレイ。
Thom Yorke, Ed O'Brien, Jonny Greenwood, Colin Greenwood, Philip Selway(Radiohead)...THE
IVOR NOVELLO AWARDSのInternational Achievement賞受賞。
9月、Philはサマリタンズの活動に勤しみ、BBCニュースにも出演。サマリタンズとの関わりについて語った。
ThomはSt James' Churchで行なわれたREMファンクラブのシークレット・ギグに飛び入り。
また、"スター・ウォーズ"ミサイル防衛システムを支持するブレア首相への抗議がメインとされたCNDのキャンペーンにスピーカーとして参加し、デモ行進では先頭をきった。
10月、Thomがホームレス救済を掲げる慈善団体シェルターへの基金を募るために行なわれる抽選会の賞品として、愛用していたK.Yairiのエレアコをメンバー全員のサイン入りで寄贈。
11月、Make Trade Fair-平等な貿易を実現させよう-キャンペーンのOxfamのポスターシリーズにThomがチョコレートまみれで登場。
年末、音楽界をにぎわせた話題は 「Do They Know It's Christmas?」の20年ぶりのリメイクである。
Thomはピアノ、Jonnyはギターでこれに参加。 発売初日のみで95,000枚の売り上げを記録。
12月には今までサイト上でしかみれなかったRADIOHEAD TVがDVDにてリリースされた。
JonnyとPhilが2005年公開予定の映画「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」にThe Weird Sistersのメンバーとして出演することが明らかになった
。
Thomが二児の父に。
Thom(Dr.Tchock)とStanley Donwoodが以前より支持している人権団体Free Tibet Campaignのチャリティー・アート・オークションに作品を提供。この作品による寄付金は£1800にもなった。
3月、ThomとJonnyはthe London Sinfoniettaとのコラボレーションでロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールのステージに立ち、ライヴでは披露したことのない"where
bluebirds fly"新曲"Arpeggi"を披露。
Jonnyが書き下ろした"Smear"そして今回の為にさらに書き下ろした"Piano for Children"も披露された。
4月、Thomは公正な取引を訴えるTrade Justiceのイベントにてデモ行進を行った後、アコースティック・セットを披露。5曲演奏されたうちの2曲はそれぞれOK
Computerのセッション時にプレイされていたという"Last Flowers"と新曲の"House of Cards"だった。
"OK Computer"がチャンネル4の視聴者が選んだ"The 100 Greatest Albums"で堂々第1位。
これを受けてか、OK Computerが発売から7年たったにもかかわらず再び売り上げを伸ばし、4月現在オンラインショップ(Amazon)のベスト10に6位でチャートイン。
5月、Thomが英政府の地球温暖化に関する政策を変える(年間3%英国のCO2排出を減らすために新しい法律を導入するよう)訴えるFriends of
the Earth Climateキャンペーン"Big Ask"に参加。Thomは地球温暖化に対する不安により作品づくりの行き詰まりに苦しんでいると近況を語った。
6月にはいり、はじめて新作について語りはじめ、8月にはメンバー自身が書き込む「DEAD AIR SPACE」なるブログがオフィシャルサイトにてスタート。スタジオでの出来事、新曲についてなどメンバーから直接近況が伝えられる場としてファンと楽しませている。
9月、1995年にリリースされたチャリティ・コンピレーション・アルバム'Help'から10年。
その 10周年を記念して、'Help: A Day in the Life'というアルバムがリリースされRadioheadも"I Want
None Of This"で参加した。War
Child Musicから配信開始され、ほんの数日の間に「今までこんな期間でこれほどのDL数を記録したバンドルやアルバムはない」と関係者をも唸らせたアルバムとなった。このアルバムでのトラックごとのDL数はRadioheadの"I
Want None of This"がもっとも多かったといわれている。
10月にはいるとJonnyとPhilが出演している公開を間近にひかえた「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の話題で盛り上がる。演奏曲がネットに登場し、出演シーンはテレビで放送しはじめるなど話題がつきなかった。
また、 Radioheadは来年はライブを行うという報告をした。
12月末、1988年、1990年に制作されたデモテープ音源がネット上に出回った。
Colin、Jonnyが二児の父に。
2月、噂されていたBonnaroo Festival
2006への出演が決定。
その後、ThomとJonnyがFriends
of The Earth "The Big Ask"キャンペーンの一環としてロンドンで行われるミュージックイベントThe
Big Ask Liveに出演決定。
月末にはV Festivalへの出演も決定した。
また、日本のアニメーション"エルゴプラクシー"のメインテーマに"Paranoid
Android"が起用された。
これは監督・脚本家らの熱烈なオファーと映像を見たメンバーからの許諾により実現したのだという...。
3月、 Sziget
Festivalに出演が決定。またThe Big Ask Liveの為に販売されたチケットわずか1000枚は、ほんの十数秒で完売となった。
フェスティバル等、次々と今年の予定が決まって行く中、Thomは自らのブログで、精神的にまいってる...と近況を語った。
また、2005年から噂のあった"A Scanner Darkly"へのサントラ提供の話でThomのソロの話が浮上。
この映画のサントラではThomのソロからの楽曲が使われるとのことだった。
そして、5月に行われるEU/UKツアー全10公演が発表、新曲が多く披露される事になるであろうこのツアーはHTTTのリリース前に行われたウォーミングアップツアー同様小さなヴェニューばかりでのプレイとなる。
翌日w.a.s.t.e.よりチケット発売がおこなわれたが、サーバーは長時間にわたりダウンするという事態に。
時々のメンテナンスを行いながらの発売となった為、売り切れるまでには1晩(日本時間で)かかったが、壮絶なチケット争奪バトルが全世界で行われていた事は間違いない。
Thomは「10000クラスのでかいショーを何本かやるって手もあったけど、みんなが聴きたいような曲をやるんじゃなくて、新しい曲がやりたい。ある意味スケッチブックを人前で公開するつもりなんだ...だから今はそういう(大きな所でやる)タイミングではない」とコメント。
バンドは、「またツアーをやるってことにすごい興奮してる。特にオーディエンスに新曲をきかせるってのがね。
はじめてだよ、契約とか守んなくちゃいけないリリースのデッドラインとかがないのは。それって、自由でもあり怖い事でもあるんだけど。」
「より楽しくのびのびやってく事だよ、俺達は今製作中の新曲をプレイするつもりなんだ。それに1枚のフルアルバムのリリースを12ヶ月も待たないで、俺達が盛り上がったらダウンロードで曲をリリースしていくつもりでもある。音楽ってのはその時の記録でもあるんだよ。だからよし、って思った時に出したいんだ。」と語り、ツアーの頃にダウンロード形式で新曲リリースの可能性もあることを明らかにした。Edはラジオの出演時にもっと早い時期にダウンロード配信によるリリースについて語ったが、現段階でまだ現実とはなっていない。
4月、Radiohead関係者が次々とブログを始める。
サウンドエンジニアGraham氏がこちらで日記を公開、ギター・テクニシャン"Plank"がこちらで質疑応答もするといったブログを開始。
5月より久々にメンバーがファンの前に顔を出す。
The Big Ask LiveではRadioheadの新曲、そしてその時点では詳細不明であったThomのソロアルバムからの曲がThomとJonnyによりプレイされた。
その日に6月のUSツアーが発表となり、即日チケット発売。これも瞬時にソールドアウト。
5月よりコペンハーゲンを皮切りにツアー開始、初日に8曲新曲をプレイ。
その後は新曲のトラックリストを少々変えながら全10曲の新曲がこのツアーでは披露された。
ツアー開始から2カ国目となるアムステルダムではPhilの母親が亡くなるという突然の不幸がありライヴがキャンセルとなる出来事があった。
その後UKに戻ったRadioheadはBlackpoolより予定通りツアーを決行した。
このツアーの合間には 、ThomのソロアルバムリリースがオフィシャルサイトにてThomによりアナウンスされ世間は大騒ぎとなる。
そして、その3週間後にはすべての楽曲がネット上にリークされ、そのリーク音源を聴いての業界でのアルバムレヴューも出回った。
リークについて、Thomは現段階ではノーコメント。
7月5日、世界のどこよりも早く日本でBeggarsジャパンよりThe Eraser発売。オリコン初登場第3位。
11日には世界でアルバムがリリースされる。
UKアルバムチャート初登場3位、米ビルボード・アルバムチャート初登場2位。
イギリスではHave You Seen This Man? という、イレイザーおじさん(日本での名称...アルバムジャケットで洪水を止めようとしている人物)がアルバムアートワークにフィーチャーされているロンドンの名所に出没するといったプロモーションを展開。The
Eraserをリリースしたレーベル XL Recordingsのロンドンにある本社の建物の外観はThe Eraser仕様に(写真:こちら)。また同時にA
moBlip on the landscapeと携帯電話によるキャンペーン(キャンペーンに参加するとThe Eraserの着メロがもらえ、ネット上の参加者分布地図にマークがつけられる)を展開。
Radioheadは8月、5つのフェスティバルに出演。ツアー中の8月25日にはThomのThe Eraserからのシングル、"harrowdown
hill"がリリースされた。
その後、5月にキャンセルとなったアムステルダムでのショーの振り替えの後、再びレコーディングへ突入...とはいわれていたものの、
世界各国、各メディアはThomを放ってはおかない。
連続的に各国のニュース/音楽番組への出演が続き、雑誌では表紙を飾る。
The EraserはMercury Prizeにノミネートされ、授賞式に出席したThomは"Analyse"をプレイ。賞は逃したもののこの日のパフォーマンスとこの時のThomの疑惑の「スマイル」が話題となった。
また、BT Digital Music Awardsでは"Use of Mobile"にMoblip、そしてThe Eraserで"Artist
Campaign"とダブル受賞している。
また、ThomはThe Eraserのことだけでなく、The Big Askキャンペーンの活動、環境問題について各メディアを通し訴えかけ、日本でもニュース番組「筑紫哲也ニュース23」へのインタヴュー出演など、話題をかかさない。
10月、今度こそレコーディングを始めるよ。とオフィシャルブログに書き込みをした。同時に環境問題について考えるThomは日本へ船で行く事も検討中と発言。
10月末にはThe Eraserからシングル第二弾となる'Analyse'が未発表曲とともにリリースされ、
11月には日本独自企画盤のEP『Spitting Feathers〜5B SIDES & 2 VIDEOS』をリリース。
バルセロナでは"Dead
Children Playing"というStanley DonwoodとDr.Tchock(Thom)による作品展を開催。
これに関連してフルカラー64ページ:ピクチャーブック"Dead
Children Playing"の販売を開始(現在売り切れ)。
12月、theeraser.netにてThe
Eraserからのリミックストラックが公開される。
ThomはNighel Godrich監修の番組、From
the basementに登場。
またNigelがこの時期にアルバムについてコメントした(以下)
「作業にとりかかってはいるけど....正直(あとどれぐらいかかるか)見当がつかないんだ。ホントに。」
Edが二児の父に。
2月、Jonnyがレゲエのコンピレーションアルバムを監修し(選曲には6ヵ月かかったそうだが)"JONNY GREENWOOD IS
THE CONTROLLER"というタイトルでTrojyan Recordsからリリースされる。
Plug Awardsにて"The Eraser"がElectronic/Dance Album Of The Year、また
Playboy AwardsのBest Electronic Albumを受賞。
2006年のアムステルダムでのライブがNightLiveXS AwardsのBest show in The Netherlandsを受賞。
同月、ThomはDead
Air Spaceに温暖化について連日コメントを多数投稿。
5月、Stanley & Dr Tchock(Thom)の作品展がオランダで開催。
6月にはRadioheadがノルウェーで開催されるHove
Festivalに来年出演という久々にライブの噂。
7月、Radioheadはアルバムのマスタリングのためニューヨークへ。
9/11発売のModeselektorのアルバム"
Happy Birthday! "に収録の‘The White Flash’にThomが参加。
イギリスの首相が"環境問題のにあまり興味がない"と噂されるGordon Brown氏に変わったことで、Thomには新たな心配が。The
Big Askでは、強固な環境法の制定を求め行っているオンラインビデオデモを開始。Thomは「大急ぎで二酸化炭素排出量削減の為の法案制定に尽力してるんだよな。じゃなきゃ非難の嵐だもんな。」とビデオを投稿。
10月1日、Dead Air SpaceにてJonnyによる突然のニューアルバム「In Rainbows」のリリース報告。
In Rainbows特設サイト:inrainbows.comを開設し、DISKBOXとダウンロード予約開始。
ダウンロード版は 、価格は「あなた次第」というビッグアーティストでは前例のない方法で世界を驚かせることに。
またダウンロード版には含まれないボーナストラックを収録したCDを含むDISKBOX購入者にもダウンロードの権利があり、10月10日、In Rainbowsダウンロード開始。
ダウンロード版と同内容の一般流通盤のリリースも決定。日本:Hostess
Entertainment Unlimited(2007年12月26日発売)、アメリカ:TBD
Records(2008年1月1日発売)、カナダ:Maple
Music Recordings(2008年1月1日発売)、その他の国はXL
Recordings(2007年12月31日発売)。
また、EMIもRadioheadが在籍中にリリースしたアルバム6枚、ライブアルバム1枚をセットにしたBOXSETをリリース。通常CD以外にもダウンロード版、そしてUSBのメモリースティックに全てを収録するというユニークなリリースをする。
11月、Radioheadは5年ぶりにオックスフォードのスタジオよりwebcastを決行。新曲を含むライブ、メンバーによるDJ等でファンを楽しませた。
またラジオへの出演や雑誌等の取材も開始。
11月下旬、2008年のツアーおよび、出演するフェスティバルが公式に発表。
12月、3日にIn Rainbows DISKBOX発送開始。日本ではIn Rainbowsの日本版公式ダウンロードサイトinrainbows.jp開設。
また、In Rainbowsの売り上げは実際いくらだったのか...と憶測が飛び交う中、ダウンロードのみ販売の為、UKチャートには反映せずBRIT
Awardsにはノミネートすらされなかったものの、CDリリースを前にしてUS/UK媒体の年間ベストとして上位にランクイン。
MOJO: 1位 / FILTER: 1位 / Q: 4位
THE GUARDIAN: 2位 / Drowned in Sound : 9位 / NME: 3位 / Time: 2位など。
また、一般流通向けアルバムの発売以降は以下のような結果をだした。
・米Billboard誌 ベスト・アルバム第一位
・米TIME誌 ベスト・アルバム第二位
・米INTERNATIONAL HERALD TRIBUNE紙 ベスト・アルバム第一位
・米Filter誌 ベスト・アルバム第一位
・米LOS ANGELES TIMES ベスト・アルバム第一位
・英MOJO誌 ベスト・アルバム第一位
・英GUARDIAN紙読者投票 ベスト・アルバム第一位
・英GUARDIAN紙 ベスト・アルバム第二位
・英NME誌 ベスト・アルバム第三位
・日ROCKIN ON誌 ベスト・アルバム第一位
・日SNOOZER誌 ベスト・アルバム第一位
・日CROSSBEAT誌 ベスト・アルバム第三位
この時期多くの取材があったRadioheadだが、取材の為に飛行機で来るようなメディアに対してはOKを出さず、すべて現地の特派員等が行うといった温暖化に対する対策をとった。また、バンドは今後のツアーに関しても、自信のブログ(Dead
Air Space)にて過去のツアーでのCO2排出量の調査した結果、CO2排出量削減を考慮し、移動に飛行機はなるべく使わない、機材は船便、ファンが電車で来れるような交通の便のいい会場での公演を実践していくと発表。
1月1日0.00am(UK time)、6回目のウェブキャスト。
In Rainbowsの一般流通向けアルバムの発売を記念して行われたもので、アルバムの収録曲を主にスタジオにて演奏、録画されたものが公開された。
プロモーションの一環も兼ねてか、通常のRadioheadオフィシャルサイトのみでの公開ではなく、アメリカのレーベルサイト、YouTubeのRadioheadチャンネル他いくつかのサイトでも公開され、アメリカではテレビでも放送された。
1月15日、 シングル“JIGSAW FALLING INTO PLACE” リリース
1月16日にはDead Air Spaceにて開催日は当日というまさに突然のインストア・ライヴの告知。
現地のファンやメディアにとっては、慌ただしい一日になったようだ。
当初予定されていたラフ・トレードのインストアで開かれるはずライヴは、あまりにも多くの人が集まりすぎたため、警察と自治体からの要請により、会場をより広めの場所に移さざるをえなくなり急きょ近くのクラブへ移動し行われたが、Colin
は「驚きだらけだった。移動しなきゃいけなかったけど、誤算のおかげで全てが上手く行った。みんながくっつき合って立つような小さなクラブでプレイしただろ。Jonnyがコードをスラッシュしながら“Bends”を弾くのを見るのは、ただただ最高だったよ」と後に語っている。このライブもネットで生中継された。
2月、Thomはイギリスで活動続けていたThe Big Askキャンペーンをヨーロッパ規模で開始 →THE
BIG ASK EU。
JonnyがEvening Standard film awardsにて"There Will Be Blood"でBEST
FILM SCOREを受賞。また奥さんと出席予定だった授賞式にThomと出席したことによりJonnyが3人の子供の父になることが明らかに。
また、RadioheadはNME AwardsにてJohn Peel Award for Musical Innovation(音楽革新賞...というらしい?)、Dead
Air SpaceがBest Band Blog賞を受賞。
また、4年ぶりのジャパンツアーが決定。
4月1日。Radioheadが1日に2公演という無料ライヴをロンドンのBBC Radio Theatreにて行う。
シングル"NUDE"リリース。
オフィシャルサイトにてNUDEのリリースに合わせ、ドラム、ボーカル、ギター、ベース...等の各パートごとに分かれた音源をそれぞれダウンロード販売し、リミックスしてみよう!というNUDE
REMIX企画を5月1日までの期間で開始。
MTVの人権メディアキャンペーン‘EXIT’の一環として、人身売買についての関心を高める目的として制作された音楽ビデオに"All
I Need"を無償で提供。
Jonnyがサントラを手がけた映画「There Will Be Blood」が日本公開開始。
ちなみにJonnyのこのサントラにおける主な受賞は以下:
ベルリン国際映画祭 銀熊賞受賞(芸術貢献賞《ジョニー・グリーンウッド》
ブロードキャスト映画批評家協会賞(作曲賞)
ニューヨーク・オンライン映画批評家協会賞(作曲賞)
オンライン映画&テレヴィジョン協会賞(作曲賞)
オンライン映画批評家協会賞(作曲賞)
ラスヴェガス映画批評家協会賞(作曲賞)オースティン映画批評家協会賞(作曲賞)
サンディエゴ映画批評家協会賞(作曲賞)
5月、ツアー開始。
2007年の発表通り、環境を考慮しながら行われるこのツアーはヨーロッパツアーにおいてはTHE
BIG ASK EUと提携。
またradiohead.comサイト内に二酸化炭素排出量計算機機能を搭載したページ「The most gigantic flying mouth
for some time.」をオープン。
バンドがツアーで試みているライヴの質を落とさず二酸化炭素排出を減らしてツアーを行っていくのかという情報提示、そしてライヴ会場へ公共機関を利用しての交通手段の情報提供、およびファンによる情報共有等の場としても利用可能となっている。
また、ツアー先にて"House Of Cards" のPVを収録。
「あまりヒットなんてものはなかったのに(※)、一体何が目的なんだろうな?」とThomもコメントしたEMI/Parlophone在籍時の楽曲を集めたRadioheadのベストアルバム「The
Best Of」がリリース。
※当初Best AlbumというよりGreatest Hitsとアナウンスされていた。
Colinが映画「Woodpecker」のサウンドトラックにJames Lavinoによる楽曲にベースで参加。
8月、USツアーの最終日はSanta Barbara Bowlよりライヴをネット上で中継。
10月、大阪を皮切りに4年ぶりとなるジャパンツアー開始。
日本ではFriends of the EarthがThe Big Askの日本版といえる「MAKE
the RULE」キャンペーンを発足。
このキャンペーンにRadioheadがサポーターとして参加。各会場では来場者に、日本が確実に温室効果ガスを削減するための法律の実現をめざすこのキャンペーンへの参加を呼びかけ、署名活動がおこなわれた。
またライヴが行われる会場すべての消費電力に対し「グリーン電力証書システム」を導入した。
※MAKE
THE RULE レポート
オフィシャルサイトにて4月のNudeリミックス企画につづき、Reckonerリミックス企画開始。
In RainbowsとFrom The Basement の映像を収録したDVDがセットになったスペシャル・エディションがTSUTAYA RECORDS
独占で10/1にリリース。
アイスランドで行なわれている自然保護キャンペーンNatturaのため制作されたBjorkの曲"Nattura"にThomがコーラスとして参加。
Radioheadら英国のアーティストがデジタル配信の時代となった今、アーティストとレコード会社をはじめとした関係企業が公平な立場でビジネス出来るよう求めていく「Featured
Artists' Coalition(FAC)」を設立。
Edはこの団体のディレクターの一人として活動。
11月、Thomがサポートしてきた2005年5月イギリスからはじまったBig Ask キャンペーン。
このキャンペーンの成果としてイギリスでは2050年までに温室効果ガス80%削減という修正案が成立することが決定。
メキシコ、チリ、ブラジル、アルゼンチンでの公演発表。
James Rutledgeが4時間にも渡る“Videotape”のリミックスを制作し、曲のタイトルにちなんでVHSに収録。このビデオテープがMissing
People支援のためにメンバーのサイン付きでeBayに出品され、£720.89で落札される。
1月、"In Rainbows"のアナログ盤の売上げ統計(2008年1月1日より:市場調査会社Nielsen Soundscan)により、25,800枚を売上げ2008年の年間アナログ盤売上チャートでトップに。OK
Computerも10位にランクイン。
Oxfam支援のために1月5日〜7日までオークランドで開催されたNeil Finnの7 Worlds CollideコンサートにPhilとEdが出演。Philがギターを弾きながら歌を披露するというサプライズも。
また、 The National
Coalition for the Homeless (全米ホームレス連合)の「It Can Happen To Anyone」の広告キャンペーンにIn
Rainbows discboxのDISC 2に収録の"MK 1"を無償提供。
Thomが2月に行われる第51回グラミー賞のプロモーションキャンペーンに参加。
Jonnyがギターで参加したイスラエルのシンガー Dudu Tasaの"What a Day"がリリース。
2月、Thom Jonny Colin Edがグラミー賞授賞式に参加。
ThomとJonnyは Radioheadは5部門にノミネート。
受賞したのはBest Alternative Music AlbumのみでしたがThomとJonnyが南カリフォルニア大学の「Trojan Marching
Band」と共演し、15Stepを披露。Best Alternative Music Albumを受賞。
3月。 ThomがDoomの曲、「Gazillion Ear」のリミックスを手がけたことが明らかに。
そして、15日よりメキシコ、そして南米ツアーが開始。
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