Thom - Thomas Edward Yorke 1968年10月7日、ノーザンプトンシャー州ウェリングボロー、物理学者の父(グレアム)と元ファッションデザイナーの母(バーバラ)の間に生まれた。 生まれつき左の瞼が不自由で6歳までの間に5回手術を受けている。 生後間もなくスコットランドへ父親の仕事のために転居。ファイフ州のランディンリンク小学校へ通う。 幼い頃から凝り性だったというトムは両親には「あなたほど買ってあげたおもちゃの元をとれる子はいない」ともいわれていた。 レゴブロックばかりを買ってもらった時期が4年ぐらいあり、ほとんど全部集めたようだ。また父親からは自転車を買ってもらっては一日中乗り回し、電気キットにも夢中になった。といってもトムはワイヤーを繋げて電球に明かりをつけるという本来の目的よりも、ショートさせてその臭いを嗅ぐのが好きだったという。 スコットランドでは7歳にして結婚を約束していたというガールフレンドがいたようだが、トムはその年齢の時期に再びイギリスの南部へ戻ることとなる。 その後引越し続きだったが78年にオックスフォードにおちつく。 その年の9月から80年7月までスタンドレイク英国教会小学校に通う。のちに弟のアンディも入学したこの小学校で母親のバーバラは教壇に立っていた。 トムは不自由な目のことでクラスメイトからいつもからかわれ、喧嘩に巻き込まれる事もしょっちゅうだったという。 負けるのは決まってトムであったが、次第に相手に何かと因縁を付けてくるのを待つようになり、自らトラブルメーカーになっていった。 トムは「勝ち負けではなく、喧嘩をすることが重要だった」と後に語っている。父親は大学時代に入賞経験もあるボクサーであったことから、自己防衛の手段としてボクシングを教わった事もあったそうだが、この試みは成功とは言えなかったようだ。 トムがギターを初めて手にしたのは小さい頃(4歳頃とされている)。おもちゃのスチール弦のギターを母親にかってもらったそうだが、弦を押さえる指の痛さに耐えかね、壁に投げつけ壊してしまう。 しかし、8歳の誕生日に両親に(安い)スパニッシュギターを買ってもらう。 更に友人がもっていたという75年のクイーンのアルバム「オペラ座の夜(A Night at the Opera)」を聴いて以来ギタリストのブライアン・メイに夢中になり、 ギタースクールにも通う。ギターのクラスでは先生に「僕はブライアン・メイになりたい」と言っていた。 しかし、トムは20〜30人集まって「クンバヤ」という賛美歌を弾かされ、この段階で弾けたのもこの「クンバヤ」ただ1曲だけであった。(クンバヤってこれ?) 10歳ではじめてバンドを結成(といっても実験的なデュオといったほうが正しいらしい)トムがギターを弾く横でもう1人がテレビをぶっ壊しているという、笑うに笑えないものだったようだ。 11歳で"Mushroom Cloud"という原子爆弾のことを歌った陽気なナンバーをつくった。※トムはきのこ雲の恐ろしさではなく、見た目について書いたと言っている。 そして80年、のちのメンバーと出会うこととなるアビンドンスクールへ入学。 12歳になったトムはエレキギターが欲しくてたまらなくなり、ベニヤ板に拾ったアコースティック・ギター用のピック・アップを糊でつけてギターを作ったりもしていたらしいが、コリンと出会い、そしてTNTという学生仲間のパンクバンドを作った事によりシンガーとしてのデビューを果たす。(当時はニュー・ロマンティクス全盛期ともあり、トムとコリンはお互い奇抜な服装をしており、何かとパーティで顔をあわせていたり、ジョイ・ディヴィジョンのレコードを貸し合っていたりしていたようだ。)当初は盛り上がっていたようだが、84年には退屈になってきたことを理由に脱退。自分のやりたい事ができなかったし、難しい年齢だったこともあって最後にドラマーと自分とのエゴのぶつかり合いでぐしゃぐしゃになったという。「やるなら自分でやるしかない」と思い切ったトムは、コリンとエドを誘った。 この3人はもともと知り合いだった。演劇に興味があったエドは演劇部の出し物にたびたび登場し、コリンとは演劇で主役をわかちあったことがあり、トムは演劇の音楽を担当していたことがあったからだ。 エドがバンドに採用された理由は「クールでモリッシーに似ていると思ったから」とトムは語っている。 活動は学校の音楽部で行われ、次第にこの3人を中心としたバンドが出来上がっていった。 3人以外のメンバーチェンジは繰り返されたが、80年代終わりまでバンドには必ずホーンセクションが加わるというかたちで活動をしていた。 バンド名もコロコロ変わり、そのなかでもShindig、Dearest、Gravitateが長くもっていたそうだ。 また、固定のドラマーもなかなか決まらずBossのドラムマシーンに頼ってたが、同級生の誕生日パーティーで演奏する事になった彼等はドラムマシンの故障の為にざんざんな目にあい、ドラマーを急遽さがすことになる。そこで声をかけたのは当時Jungle Teregraphというバンドに在籍していたフィル。学校で唯一ドラムが叩けると有名だった。 フィルがバンドに加入し、バンド名も毎週金曜日に練習していたからという理由でOn A Fridayに落ち着いた。 そして、このOn A Friday のリハーサルにちょくちょく顔を出していたのがコリンの弟、ジョニーである。 ジョニーはハーモニカでの参加を認められたものの、まだ正式メンバーとしては認められていなかった。 トムはアビンドンスクール卒業後、大学進学を延期し1年ブラブラして過ごした。地元のデパートの紳士服売り場、バーテンダーの仕事もしていた。 車にも興味があったトムは免許のとれる年頃に早速免許をとり運転していたが、車が大破、同乗していた当時のガールフレンド負傷するといった交通事故を起こした事がきっかけで車に対する気持が一気にさめ、同時にあらゆる交通機関を恐れる様になり、その恐怖はその後の曲の中でも顔をだすことに。 87年夏、On A Fridayはオックスフォードのジェリコタヴァーンで初ギグを行う。 88年2月、On A Fridayの前座にはトムの弟アンディとジョニーが在籍するバンドThe Illiterate Handsがステージにあがり、このギグ後ジョニーはOn A Fridayの正式メンバーとなった。 しかし、この後バンドはほぼ消滅状態に入る。 88年秋、トムは英文学とアートを学ぶため、オックスフォードを離れ、エクセター大学へ入学。 「フランシスベーコンが好きだったから赤と白と黒ばかり使っていた。1年目に描いた絵の中で唯一良く出来たと思ったのは、脳みそが頭から飛び出た男の絵だった」 オックスフォード(いわば大学の街)に住んでいたトムにとって 、大学に通う為に外からやってくる若者に対して子供の頃から募らせていた嫌悪感、自分自身がその外部からの侵害者となったことで嫌悪感が一層深まったトムは自分が学生であることが嫌でたまらなかったという。そして次第に授業をさぼる様に。 酒、ドラッグが大学で簡単に手に入る事から、トムも例外ではなく大量に摂取していた。 酔って朦朧としたトムの意識の中で生まれた曲がCreepだった。しかし、この時点では歌詞が気に入らなかった為封印された。※大学構内にあるThe Lemon Grove(通称The Lemmy)というパブのトイレで書いたといわれている。 大学での音楽活動....ダンス・ミュージックに興味を持ち、アシッドハウス/レイヴを聴きあさり、大学構内のThe LemmyでDJのバイトをしていた。 4ヶ月間トムがまわしていた夜には客が200名から千人に膨れ上がったという。 また、パンクとテクノを融合させた実験的グループHeadress Chickensにも参加しており、エクセター近郊で30回以上のライヴをこなし、限定シングル"I Don't Want To Go To Woodstock"をリリース。トムはギターとコーラスを担当している。※同じくこのグループのメンバーであったジョンは後にRadioheadのアルバムthe Bendsに参加することとなる。 Headress Chickensは91年にはFlickernoiseという奇抜さを増したプロジェクトへと形を変えたが、トムは1回のギグに参加しただけで脱退している。脱退について他のメンバーはトムの心はオックスフォードにあるとわかっていたから、驚きはしなかった...と語っている。 トムは時間が出来ればオックスフォードへ戻り必ずOn A Fridayのメンバーと会っていたという。 大学の休みを利用してのリハでは新曲を練習し、それまでの曲のおさらい、そして話し合いをしていた。 特にジョニーと会うのを楽しみにしていたというトムはこの頃からジョニーと4トラックのMTRを使って実験をし、トムの書くラフなアイディアにジョニーが専門的なタッチをくわえるという関係ができあがったという。 ジョニーを正式メンバーに迎えるのにものすごく長い時間がかかったにもかかわらず、あっという間にジョニーはトムにとってのメインのソングライティング・パートナーとなった。 またトムの大学時代には今となっては人生におけるパートナーとなったレイチェル・オーウェン(Rachel Owen)との出会いもあった。 「僕が彼女を追い回していた」とトム。次第にレイチェルもトムにひかれていき真剣に付き合う様になる。 ※トムとレイチェルとの間には2001年2月に息子ノア(Noah)、2004年10月に娘アグネス(Agnes)が誕生。 トム同様アートを専攻していたレイチェルの作品は、Pablo HoneyからシングルカットされたPop Is Deadの裏ジャケットにも見る事ができる。 また、Radioheadのアルバムのアートワークを手がけるスタンリー(Stanley Donwood)ともこの大学で出会っている。 そして、ある日芸術学部が新たに購入したMacと最新ソフトウェアのおかげで、ミケランジェロの名画-システィナ礼拝堂の絵をスキャンし、色を全て変えて自分の作品に仕立てたという卒業作品で単位を取得し、無事大学を卒業。オックスフォードへ戻る。 ------> 続きはRadiohead biographyへ。 2006年ソロアルバム(本人はそう呼ばれたくないそうだが)「The Eraser」をリリース。 このアルバムをリリースしたXL Recordingsはリリースにあわせ"Have You Seen This Man?" という、イレイザーおじさん(日本での名称...アルバムジャケットで洪水を止めようとしている人物)がアルバムアートワークにフィーチャーされているロンドンの名所に出没するといったプロモーションを展開。また同時にA moBlip on the landscapeと携帯電話によるキャンペーン(キャンペーンに参加するとThe Eraserの着メロがもらえ、ネット上の参加者分布地図にマークがつけられる)を展開。 本社の建物までThe Eraser 仕様に。→写真 |
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